JOURNAL | Vol.07
舟大工
坪山 良一 氏
舟大工の坪山良一さんによって、およそ20年前に作られた木製のシーカヤック『綾はぶら』号。漕ぎ手は、今では日本を代表するパドラーに成長した白畑瞬さんだった。当時シーカヤックを始めたばかりの白畑さんと坪山さんの二人で、どんな艇にしようかと相談し、速さを追求したフォルムをデザインした。とても美しく細い流線形は、その分だけ扱うのが難しい。周囲からは初心者には無理だと言われたが、二人は気にも留めなかった。坪山さんは、「瞬、見返すなら、今だぞ。てっぺん取りたくないか?」と耳打ちしたという。将来も何も決まっていなかった青年は、海とひとつなれるシーカヤックに惚れ込み、練習を繰り返す。そして〈奄美シーカヤックマラソン〉に出場し、ひらひらとオールを漕ぎ、無事に帰還。翌年には3位、さらに次の年には新たにFRPで型を取った、より外洋を漕ぐのに適したサーフスキーというタイプで総合優勝を果たした。
けれど、勝負にこだわるあまり、二人は次第にすれ違うようになっていく。白畑さんは工場を出て、狭い島の中でも顔を合わせないように、できるだけ避けていたという。優勝にこだわって出場した2012年の〈奄美シーカヤックマラソン〉で、トップ争いをしていた白畑さんはゴール直前に転覆してしまう。優勝目前でリタイアし、「それで戻るんです、原点に」。坪山さんと一緒に作った木製の『綾はぶら』号に、初めて乗った時の気持ちを取り戻すべく、翌年、白畑さんは沖縄から奄美大島を渡る旅に出た。
奄美大島の舟大工が初めて作ったシーカヤック『綾はぶら』。台湾や沖縄から、ボロボロになりながらも海を渡る蝶、アサギマダラの名を冠した、白畑さんの人生を変えた艇だった。
坪山さんは言う。
「言葉を選ばんといけんけど、彼は当時、相当なアホだった。どれくらいかって、広い工場で『ここ掃除しとけよ』って言ったら、そこだけエグれるくらい掃除し続けるようなヤツだった。でもね、アホは純粋だから、一生懸命やるんだよ。俺はアホが好きなのかもしれん。不器用な人ほど、それしかないから命を懸けてやる。俺も舟大工しかできないもの。瞬もそう。漕ぐことしかできないから頑張れた。頑張れって言ったら、ひたすら頑張れる。今は、そんなヤツいないよ」
坪山さんは、奄美大島で唯一の舟大工だ。
明治期、沖縄の舟大工・海老原万吉が奄美大島に流れつき、舟を作り始め、当時まだ16歳だった坪山良一さんの父、豊さんが弟子入りをする。沖縄では大木を削って舟を作っていたが、「奄美は貧乏な島だから、和船のように板をつなぎ合わせて形を作った」という。それが現在でも舟漕ぎなどで主に使われている「アイノコ」の始まりだった。海老原万吉の技術は、坪山豊さんを含めた三人の弟子に引き継がれ、それぞれが造船所を始めた。しかし、漁には大型漁船が使われるようになり、小さな舟の材料も木材からFRPが主流になっていく。二つの造船所は閉めてしまうが、坪山豊さんは、木、FRPどちらの舟も作り続けた。おかげで、息子の良一さんまで木造の技術が伝えられた。
「木造舟には、宮崎の飫肥杉を使います。皮のついた状態の木を見て、舟の材料として合う/合わない、判断しなくちゃいけない。目利きというやつで、舟作りはそこから始まる。割いてみないと中がどうなってるかわからん。いや、なんとなくはわかる。親父は『木が話しかけてくる』って言ってたけど、俺はまだそこまでいってないから、保険をかけて3本くらい買う。もう31年も舟大工やってるけど、まだ声は聞こえてこないね。
そこから“10メートルもの”を扱う唯一の製材所でスライスしてもらって、鹿児島の港に送る段取りをする。だから職人だけでなく、バイヤー、プロモーター、全部一人でやらなきゃいけない。舟作りを覚えたいっちゅう人は来るけれど、続かんですね。大工さんでも、今は合理化されているから、わんの仕事を見たら、こんなに大変なのか、と。本当にゼロから作る楽しさを知らないからかもしれない。本音で言ったらね、島の舟大工は俺で最後かなと思ってる。でも、最後にしてしまったらどえらいことになるぞっていうのも本音だね」
FRPの舟は、型に流し込んで作るために量産ができる。誰でも同じものが作ることができるが、木造舟は、硬さ、反り方、癖が木材によってすべて異なるため、厳密に言えば同じ舟を作ることはできない。同じデザインのゴールを設定しても、そこに至る筋道である工法、木を曲げるための温め方など、木の扱い方がすべて異なるため、工程をマニュアル化することはできないという。坪山さんは「言うこと聞かない木を、左右対称にキレイに曲げなくちゃいけない。でも、だからこそ面白い」と言った。
「木造舟の時には、手鋸を使う。もしも習いたいという人が現れても、そこから教えないといけないでしょう。仮に手鋸を使ったことがあったとしても、歯を使い捨てるような、現代的なものだと思う。俺の手鋸は、海老原さん、親父から受け継いで、3代目なんだ。歯がこぼれたら、自分で研ぐ。それが当たり前。だからわんは、時代遅れの大工なのよ。そういう苦労ができる人が、いるかね。俺はもういないと思う。それに苦労して作っても、儲かるわけじゃないからね」
取材時、龍郷町の祭りの舟を作っていた坪山さんは、絵付をしている最中だった。画家のミロコマチコが元となる絵を描き、そのタッチの再現に苦労していた。いつもならばエアブラシを使って半日で終わる仕事だが、一度描いて、納得できずに削って消したという。どうしたらタッチを近づけられるかと考えて、刷毛を使って少しずつ描き始める。すると「悪意はないよ。でも左手で描いたよう」と思っていた絵が、「いかに独特で、難しいのか」がわかったという。そこに面白みを見出し、自分ができる限りの仕事をする。
「今の道具では、あの絵のタッチは出ないってわかった。昔の舟を作るのに、ちょっと近いかもしれない」。そう笑った。
坪山良一さんにとっての原点は、父・豊さんの存在だった。かつて名瀬港の海沿いにあった工場の前を新聞記者が通りかかり、島唄を歌いながら仕事をしていた豊さんに民謡大会に出場することを薦めた。見事、優勝してレコードデビュー。気がつけば、曲を作ればヒットを飛ばす、島では知らぬ人のいない唄者になっていた。
「ちょうど木造舟の受注が激減した頃で、いつの間にかミュージシャンになって、収入の8割は歌の仕事になってた。でも親父は、死ぬまで『舟大工 坪山豊』っちゅう名刺しか持ってなかったんですね。唄者として知られていたけど、最後まで舟大工だった。俺は親父が大好きだったの。生き方がかっこよかったからね。どんなに大御所になっても、『先生』なんて絶対に呼ばせなかった。『先生』って話しかけてくる人とは、それっきり。だから俺も同じ気持ち。いや、俺のことは誰も先生なんて呼ばないけどね(笑)。生き方も真似したいと思ってる」
数年前に心臓の手術をして「三途の川を見た」という坪山良一さんは、以来、「すっかり牙が抜けて、丸くなった」と笑う。争いごとが嫌いになり、引き受けているシーカヤックマラソンの監督も「名前だけ」。舟漕ぎも、レースとして争うよりもむしろ、祭りとして「わざと中間地点でひっくり返して、じっちゃんばっちゃんを喜ばせるくらいがちょうどいい」という。死生観の変化は、どこか後継者がいないことへの諦念にもつながっているように聞こえるが、それでも奄美市の市長や部長に会うたびに「俺がいつまで生きて、仕事ができるかわからんよ」と話しているという。その言葉は、舟を作る体力があるうちに、その工程を見て、少しでも技術を引き継いで欲しい、と言っているようにも聞こえた。坪山良一さんの技術が失われたら、もう二度と取り戻せない。
海の日に行われたNEDIのイベント『海とわたしたち』に登壇した白畑瞬さんは、トークの最後に次なる夢として「木造舟で鹿児島までの航路を渡ってみたい」と話した。その隣で坪山さんは、やはり「俺がいつまで生きているかわからんから、早くしてくれないと」と話した。もう一度、本気で舟が作りたい。けれど、みんな、どこまで本気なんだ? 坪山さんの言葉からは、そんな響きがした。
2024年の〈奄美シーカヤックマラソン〉で、かつて良一さんが作った木製の『綾はぶら』号から型を取った、FRPの『綾はぶら』に乗って、女子の加藤圭織選手が優勝を果たす。20年前に生まれた『綾はぶら』は、今も飛び続けている。
「瞬みたいに、かっこ良く言うとね、乗り手を選ぶ艇なんだよ。じゃじゃ馬だから、誰でも良いわけではない。バランス感覚が飛び抜けて良い人じゃないと乗れないんだ。彼女がどうしても乗りたいってやってきた時に、ちょっとだけ本気で『乗る以上は、わかってるね』って言ったら、頑張りますって、それで優勝した。ありがたいよね。舟は、俺にとっては子どもみたいなもの。今まで手がけた舟はすべて、子どもみたいなものなんだよ」
(撮影:CHARFILM)
(取材・文:村岡俊也)