JOURNAL | vol.01
もずく漁師
山田 辰蔵氏
- キャリア50年以上の漁師が見てきた奄美の海の話 -
ミガメが上陸し、美しいサンゴ礁に色とりどりの熱帯魚が泳ぐ奄美大島の海。
飛行機でアクセスすると、上空から見える “奄美ブルー”と呼ばれるエメラルドグリーンが印象的だ。
しかし、その美しい海の水面下では今、大きな変化が起きているのだという。
山田辰蔵さんは奄美の海に潜り続けて半世紀以上。
潜水器ほこ突き漁、もずく養殖を生業にして、海の生物や景色の変化を見続けてきた。
そんな山田さんに、今奄美の海で何が起こっているのか?
陸からは見えない海中世界の話を聞かせてもらった。
「昔はシュノーケリングで海の中を見ると、湾内でも30m下の小さい石まで見えよったんですよ。海が透明で。今は濁ったところだと5m先も見えんね。泥が溜まっている」
山田辰蔵さんは1949(昭和24)年、笠利町の赤木名集落で生まれた。海が大好きで、海を遊び場に育ったという。当時は、今のように「子どもたちだけでは危ない」と言われることは全くなく、自由に海で遊んでいた。
タコを捕まえるのが得意だった。タコは砂地の海底や岩礁帯に巣を作って住み、ウツボに嚙まれないように巣穴の周りを小石で囲っている。だからタコを見つけるのは容易だったそうだ。こうした海の生き物の生態や捕まえ方も、日々の遊びの中から学んでいった。
当時の海は今よりはるかに透明で、海に潜ると真っ白な砂が太陽の光を反射して白く輝いている様子がどこまでも続いていくように見えたという。
高校卒業後は上京して就職したが、環境が合わず、ストレスで十二指腸潰瘍になってしまった。医者の勧めで奄美に戻り、療養しながら海に入っていたら、すぐに回復したという。その後、奄美で生計を立てるために漁師の道へ進むことに。そして22歳で潜水器ほこ突き漁を始める。
「最初は不安もありましたよ。あとはもう慣れ」 海の中は、外からでは伺い知れない世界だ。穏やかに凪いでいるように見える海も、ひとたび中に入れば海流が激しく一気に流されてしまうこともあった。今のようにコンパスやボンベの残量計もない。最小限の機器と自分の感覚だけが頼りである。五感を研ぎ澄まし、ひとつひとつの岩礁の形を把握して、海の中の地形を覚えていく。
湾内にはメジロザメやオオメジロザメなど、サメが多く生息していた。
「魚を突くと、血の匂いで必ず2、3匹は来よったですね。サメはすごく頭が良くて、僕がびびって弱腰になると伝わります。だから、水中でほこを突き出してずーっとにらみ合い。気持ち的には負けないようにしていました」
漁場を変えようと船を動かしても、移動先でサメが待ち構えていた。エンジン音の後を付いてきていたのだ。
「他の一本釣りの漁師さんも、サメにやられるって言いますよね。魚が釣れても途中でみんな食べられて、サメがおって漁にならないのはちょこちょこありますよ」
潜水器ほこ突き漁は、ボンベを背負って海に潜り魚を突く。主に魚が眠っている夜に行い、一部の許可された地域でのみでできる漁だ。
「漁協が開く安全のための講習を受けたら許可を出すっちゅうことで。それが始まりですね。僕の先輩に潜水の器具を販売する先輩がいて、いっぺん教えてもらってから始めました」
湾内では主に一人で漁をしていた。船で夜の海に出て、碇を下ろし、ボンベを背負い重りを付けて一人潜る。明るい南洋の海は、夜になるとその姿をがらりと変える。暗い夜の海は静かで孤独だった。
山田さんが漁を始めた1970年代の海は、今よりもはるかに豊かでたくさんの魚がいた。
「金になる魚はみんな取りますけど、特に一番値段が高くて量が多かったのが、シロクロベラ。あとはがっつん(メアジ)って群れを作っている魚が湾内に大群で入って来とったんですよ」
しかし、その魚たちも今は減ってしまっているという。
「それでもまだ15年くらい前は、陸から見ると魚の群れが来てぶくぶく湧いているのが見えました。シロウルメやグルクン(タカサゴ)などの群れの魚は、今は入ってこないですね」
徐々に魚が減る中、潜水器ほこ突き漁の先行きに不安を感じて、山田さんは別の方向性を模索するように。折しも次男が高校卒業後に奄美で働きたいと話していたため、もずく養殖を親子2人でやろうと考えた。
山田さんはもずく漁師に弟子入りして一年修行、翌年から高校を卒業した次男を加えて、親子2人でもずく養殖を開始。1999年のことだった。
養殖場所は、山の栄養が流れ込む場所を自ら探した。
「山の地形をみたら、いい場所か悪い場所かわかりますよ」
雨が降って山に沁みこみ、そこで窒素やリン、カリウムなど栄養をたくわえた水が川に流れ、やがて海に流れてくる。山からの栄養が沿岸の生物を育み、海を豊かにするのだ。
初めて一年目は失敗して苦い思いをすることもあったが、経験を積み、すぐに成熟した肉厚なもずくを出荷できるようになっていった。
一般的にスーパーなどでよく売られているもずくは、塩漬けした「塩もずく」か三倍酢で味付けした「味付けもずく」だろう。だが、奄美では5~6月のもずくの収穫期のみ「生もずく」を販売している。これが格別の美味しさなのだ。居酒屋などでもこの時期は生もずくを使って調理しているところがある。
「生のもずくは、コリコリした肉厚な食感といい、潮の香りや風味といい、これもずくなのって疑うくらい違いがありますよ。三倍酢じゃなくてめんつゆで食べるのもおいしいし、スープや鍋、しゃぶしゃぶ…なんでも合います」
しかし、こうして軌道に乗ったもずく養殖にも翳りが見えてきている。
「10年くらい前からもずくの収穫量が徐々に減ってきています。奄美の海は陸から見るとまだきれいです。でも潜ってみるとだいぶ濁ってきていて、それは赤土の影響もあるし、海の酸性化や地球の温暖化の影響もあります」
酸性化した海では、海藻の生育が悪くなる。もずくだけでなく、海の絨毯のようなアマモ類も薄くなってきているという。
「あと、昔はウニがものすごくおったんですよ。今はもういっくら放流してもだめ。海藻が生えないから、餌がないし、みんないなくなっちゃっている」
さらに、温暖化も影響してきている。今、温暖化に伴うサンゴの白化現象が観測されている。
「サンゴと共生している褐虫藻(かっちゅうそう)は、光を吸収して養分を作ってサンゴに提供している。海水温が上がると、暑さに耐えられんってサンゴから褐虫藻が抜けていくんですよ。残されたサンゴは自分で光合成できないから、それで真っ白になる」
去年、2022年は特に白化現象が観測され、大浜海岸ではサンゴの9割以上が白化し、約2割が死滅した。
サンゴは大潮や台風から島を守る砦であり、魚や海藻を育む場でもある。“海の熱帯林”と呼ばれ、世界の海洋生物の約四分の一がサンゴを棲み家としているという。
濁った海では動物性プランクトンが減り、酸性化した海では海藻が生えない。すると、それらを食べていた生き物が姿を消していく。
「他にも、テルピオス海綿の影響もあります。サンゴを覆って光合成ができないようにしてしまうので、サンゴが死んじゃうんですよ」
サンゴが死に、甲殻類、小魚、ハゼとか、小さい生き物がどんどん姿を消していく。すると小さな生き物を食べていた大型魚もこなくなる。山田さんが知っているだけでも、何十種類と姿を見せなくなった生き物がいるそうだ。
「海のしくみっちゅうのはみんな連鎖していますから。ひとつがいなくなったら、またそれを食べておった生き物がいなくなる。そうやってすべてに影響していきます」
今、海の自然治癒力が汚染に対して追いついていない状態なのだという。では、これからどうしていけば、この美しい奄美の海を未来へつないでいけるのだろうか。
いかに環境に負荷をかけないか、海への影響を少なくするか。土木工事は人々の生活を豊かに便利にしてきたものである。道路ができることで、山に隔てられていた奄美の集落がつながり、海産物や農産物の輸送可能エリアが広がり、さらに護岸工事によって守られてきた命もある。島にとって土木工事はなくてはならないインフラづくりであった。
しかしその一方で、5分早くたどり着くための道路新設や、ほとんど人が入らないエリアの工事など、必要以上に行われている部分もあるという。であれば、その工事の必要性を見直したり、また工事をする場合でも海への影響が少ないやり方を模索したりするなど、慎重に進めていく余地はありそうだ。
「こんな風にいろいろ話しましたが、でもまだまだ奄美の海はすごくきれいなんですよ。どうしても北部の湾内は水の流れで淀みやすいですが、外海に行けば透明度がすごく高い。南部の加計呂麻島の西安室(にしあむろ)というところでは、サンゴや熱帯魚が港の中からも見えるくらいきれいです。奄美の海をぜひ見に来て欲しいです」
山田さんのすごいところは、海の中の小さな生き物の変化も見逃さないことだ。
「それは、今までいろんな研究者と一緒に潜って教えてもらったのもありますし、潜っていって、珍しい生き物を見たらメモして図鑑で調べて、そういうやり方で覚えていきました」
漁師として海に潜り続けてきたことに加えて、山田さん自身が興味を持ち深く観察してきたからこれだけ奄美の海の中で起きていることについて話を聞かせてもらえたのだろう。山田さんの記憶や思い出は多くが海の中にある。だからこそ、その言葉は重い。