奄美でいきる、暮らす

JOURNAL | Vol.08

パドラー

白畑 瞬 氏


海に漕ぎ出して知った、命が生き返る実感

奄美大島に生まれ育った白畑瞬さんにとって、かつて海は遠い場所だった。波打ち際で遊び、堤防から飛び込みをしたことはあっても、海と深く結びつきを感じることはなかったという。幼い頃には「危ないから行くな」と言われていた海に初めて漕ぎ出したのは、18歳の時。ふらふらと目的なく暮らしていた時期、絵を習うために通っていた舟大工の坪山良一さんの工場に舞い込んだ、シーカヤックの修理依頼がきっかけだった。修理の終わった艇を確認するために、良一さんから「面白そうだから乗ってみ」と言われ、初めてパドルを漕いだ。

「僕は泳ぎも苦手だったし、深い海に潜っていけるような人間ではなかったんです。でも、シーカヤックに乗って自分の力で水を漕いで、不思議な気持ちになった。漲る、命が生き返るっちゅうか。気づいたら名瀬の沖にある岩、立神まで来てしまった。そこから見た景色が今でも忘れられないんです。自分が住んでいた名瀬の街が見えて、その奥には深い深い山が聳えてて、海の中には珊瑚があって、ウミガメが泳いでいた。生活のすぐそばに、こんな本物があったのかって。それまでは、どこかで自分を誤魔化していたんだと思う。高校を卒業して内地にも出ずに、自分のやりたいことがわからずに島に残って、どこか親不孝っちゅうか。でも、自然っていう本物に気づいた。人の手では絶対につくれないもの。純粋に、もっと深めたい、生まれ育った故郷を知りたいって思ったんです」

それからはシーカヤックに荷物を積んで、一人でさまざまな浜へ出かけるようになった。黙々と漕ぎ、誰もいない浜で弁当を食べ、帰ってくる。自然の中に独りで身を置き、自分の内面とも向き合う、生き直しているような時間。島から出た同級生たちが夏休みに内地から帰省し、きらびやかな都会の話をしていても興味が湧かなかった。むしろ「海の道がどこまでも続いていく水平線に自由を感じていました」という。そして良一さんと相談して、加計呂麻島で毎年行われている〈奄美シーカヤックマラソン〉に出場しようと決めた。とにかく速さを求めたデザインを一緒に描き、工場にあった伝統舟の余った廃材でシーカヤックを造り始める。良一さんにとっても初めて作るシーカヤックだったが、伝統工法を用いて、曲尺と墨壺で作り上げてしまう。そこには良一さんの父で、唄う舟大工と呼ばれた島唄の名手・坪山豊さんもいて、時折、三味線を奏でながら歌うのを聴いていた。

「パソコンとか現代の技法なんて使わずに、飫肥杉という余った材を削って細く貼り合わせていくんですね。坪山さんと一緒に造りながら、なんてカッコいいんだろうと。舟を造る手伝いをしていると、島唄が聞こえてくる。そこでまた本物に出会ったというか。奄美の伝統の素晴らしさに気づいたんです。出来上がったカヤックは、幅46センチ、長さ6メートル。周りからもそんな細い舟なんて、初心者には無理だって言われた。初めて漕ぎ出した時には、やっぱりひっくり返るんです。いろんな海に持って行って、何度も何度もひっくり返りながら練習して。大会に出場して初めて33キロっていう距離を漕いで、なんとかふらふらしながらも渡り切ったんですね。その時のシーカヤックの名前が、『綾はぶら』。海を渡る蝶の名前ですけど、木製のカヤックに魂が宿るっちゅうか、自然といろんなものから力をもらって、ひらひら舞いながらパドルを漕いで、どうにか落ちずに漕ぎ終わった。ゴールした時に、ああ、帰って来られたって」

 『綾はぶら』とは、1000キロ以上も旅をして奄美大島へとやってくる蝶、アサギマダラのこと。坪山豊さんの島唄にも『綾はぶら節』という名曲があり、それは島を出た愛しい人へ、いつか戻っておいで、と伝える歌詞だった。〈奄美シーカヤックマラソン〉はスピードを競うレースでありながら、白畑さんにとっては、先祖や自然、つまり島との繋がりを感じる時間だったという。

翌年の〈奄美シーカヤックマラソン〉では3位、さらに次の年は『綾はぶら』から型を起こして、FRP製の艇を造って出場した。コックピットのないサーフスキーと呼ばれるタイプで、外洋で波を乗り継ぎながら進んでいく乗り物だった。新たにサーフスキー部門が創設された〈奄美シーカヤックマラソン〉で、白畑さんは見事に総合優勝を果たす。「今までの人生で、そんなに喜んでもらったことがない」くらい、家族だけでなく島の人が喜んでくれた。自身の中にも島の伝統を受け継ぎたいという思いが芽生え、舟漕ぎ文化の意味を噛み締めるようになっていく。同時に、どこか芯の部分で自分のアイデンティティに対して、思い悩むようにもなった。舟を漕ぎながら掛け声のように発する「すっとぐれ」「すっとこれ魂」という「負けてたまるか」という意味合いの言葉は、どこから湧き出すものなのだろう? 島の「魂」がどこから来ているのか、知りたいと思うようになった。

「それを見つけるために、一人乗りのアウトリガーカヌーで沖縄から奄美まで渡って行きたいと、島の先輩である青年団の方に話したんです。そうしたら『海を渡るなら、意味を持って渡らんといかん』って言われたんです。『今年は奄美が日本に復帰して60周年だから、島の人の話を聞きながら行きなさい』と。それが2013年、28歳の時。沖縄から密航船のルートを辿って漕いだら、もしかしたら、島の誇りや負けてたまるかという気持ち、団結力みたいなものがわかるかもしれない。それで沖縄の国頭村から与論島、沖永良部島、徳之島とカヌーで渡り、当時の話を聞きながら、奄美まで帰ってきました。朝から漕いで、夕方近くに島に着いたら戦後のアメリカ統治の時代を知っている世代の方々に来ていただいて話を聞いたり、全部の島で若い世代とも意見交換をしたり。テントで寝て、また次の島へと向かって漕いでいく」

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2013年、沖縄から奄美まで一人で漕いで渡った。写真提供/白畑瞬

戦後、奄美群島は沖縄と同様にアメリカ軍の統治下に置かれ、本土との往来も制限され、経済統制が行われていた。食糧も届かず、自給自足のできない集落は貧困に喘いでいたという。初めは北緯30度線、のちに奄美群島が復帰した後には北緯27度線に引き直された国境線を跨ぎ、密航船、闇船によって命が繋がれた歴史がある。

「国境線が引かれて、闇船で物資を届けざるを得なかった。あるいは進学のために命懸けで海を渡って本土の大学に行く人もいたそうです。もしも事故で亡くなったとしても、日本国民ではないから歴史にも残らない。島を渡りながらお話を伺う中で、島の誇りを再確認するために沖縄から漕いできたけれど、歴史を風化させないことも大事だと強く感じたんです。奄美に帰ってきて、これで終わりじゃないって。10年後、今度は一人ではなく、仲間たちと鹿児島に行こうと。次はこの気持ちを共有しようと思ったんです」

 既に立ち上げていたカヌークラブを活性化し、10年かけて共に旅する漕ぎ手を育てていった。奄美大島以外の島に住む人たちとも同じ思いを共有したいと考え、前回の旅で知り合った徳之島の青年団などにも声をかけ、さらには宝島や悪石島からも参加者がいた。2022年には奄美から宝島まで、さらに復帰70周年の節目である2023年には宝島から鹿児島まで、カヌークラブのメンバーと合わせて18名で海を渡った。

「南西諸島も含めて、鹿児島までの航路では、たくさんの方が命を落としています。トカラ列島で難破したり遭難した船がたくさんあるけれど、それは表には出てこないんです。だから巡礼というか、慰霊と鎮魂の意味を込めて島を渡りました。例えば奄美から100キロ離れた先にある宝島では、見つかってしまうから夜にしか舟を走らせられない。島陰に隠れて、夜になったら出ていって、固めた黒糖を布に包んで物々交換していた。そうせざるを得ない時代。知れば知るほど、島に対してのなんちゅうか、深まるっちゅうか。

 みんなで行くってなった時に、背中を押してもらったんですね。自分が先頭を切っていたつもりでいたけれど、どちらかと言えば、みんなに連れてってもらった感じでしたね」

海を渡ることは、生きる術であり、そのまま島の文化にもなっている。奄美大島からおよそ100キロ離れた宝島へと向かう際、名瀬の沖にある横当島と並行になるまで艇を進めたら、つまり横に当てたら、そこから宝島が見えるという。航路の目印としてつけられた名前の意味も、語り継がなければ忘れられてしまう。

「密航の途中で難破して、宝島に漂着した数名の青年がいたそうです。食糧を食べきってしまうと申し訳ないからって、木舟を借りて、櫂のヤホーを作って、集落まで漕いで帰ってきたらしい。復帰前だからもう70数年前の話です。当時は、タフな人間力がまだあったんですよ。あるいは口之島で聞いた話では、三艘の木舟がやってきて、赤い珊瑚を持ってまた風を見て帰っていった、と。いわゆるポンポン船の密航が主流だと思うけど、漕いで海を渡った人たちもいた。それぞれの島には水先案内人もいたらしいです。患者さんを病院に運ぶにしても、島から島に舟に乗せて渡ったそうで、50〜60キロって、そういう生活圏の距離なんです。やっぱり我々は、海洋民族なんですよ。日本の中でこれだけ明確に海洋民族としての歴史や風習が残っているのは、奄美大島と沖縄だけじゃないかな。古き良き文化が残っている。それはつまり日本人としてのアイデンティティを再確認するきっかけになる島なんじゃないかと思うんです」

2024年 鹿児島航海での子どもたちとの交流。写真提供/白畑瞬

伴走艇が付いているとはいえ、一歩間違えば命を落とすかもしれない。黒潮の速い流れがあり、天候も安定しない海域を渡る。自分の決断を信じて漕ぎながら、何を考えていたのかと問うと、「深くは考えない。瞑想に近い状態だと思います」という答えだった。ぼんやりと頭に浮かべるのは、島のことや亡くなった祖父の顔、懐かしい顔ぶれ。すると疲労を感じなくなっていく。自分がどこからやって来て、次に何を渡していくのか。漕ぐうちに見えてくるものがある。いつまでも浜からカヌーが出せて、朝夕になんとなく人が集まって、朝陽を、暮れていく太陽を眺めることができたら、「いい島になるんじゃないかな」と思っている。

「僕はカヌーであちこちを漕いだことがあるけれど、日本は同じ島国なんだって思ったんです。海から湘南を眺めたら、山があって緑があって、そんなに奄美と違わない。奄美だけだと思っていたら、そんなに変わらなかった。それもまた僕にとっては大事な実感かもしれない。

長い距離を漕いで海を渡ることは、一つの航海だから、本当に家族になるんですね。別々のカヌーに乗っていたとしても、みんなで一緒に渡って、安全に帰ってくる。自分中心ではなくて、自然が中心にあって生かされているって、漕ぎながら共有している感覚はあります。それに気づくことができて、本当によかったなって」

 次の10年後には何を? と問うと「まだはっきりとは言えないけれど」と前置きをしつつ、かつて祖父母の時代には生活の道具だった伝統の木舟で、海を渡りたいと言った。

(撮影:CHARFILM)

(取材・文:村岡俊也)